昭和44年12月09日 朝の御理解
御理解 第32節
「女が菜園に出て菜を抜くとき、地を拝んで抜くように心になればおかげがある。また、それを煮て食べるとき、神様頂きますというような心あらばあたることなし。」
この通りの心になることですね、信心とは。ですからこの通りの心になるという事、全てを合掌して受けていくという事なんですよ。女が菜園に出てこう言うておられるこれは女に限ったことでもなからなければ、必ずしも野菜にだけという意味じゃない。全てのこと。ですから、これをもう一つ、例えてもうしますと、女が菜園に出て、とこう拍手して神様ありがとうございます。
お野菜、大根なら大根を頂きます時に、本当にここまで、見事な野菜を作って頂いたという、感謝が込められなければならんのは勿論、人間の力で作るのではない、人間の力で出来るものじゃない。ただ、種を蒔いたり、肥料を施したり、または、それに対する色々な、勤労というものがあって、大根が良く出来たのですけれども、それだけで出来るものではない。
やはり神様のやはり天地のお恵みがあって、初めて出来るのであるから、そこにいわゆる感謝する心大地を拝む心。「そんなことがあるもんか、これは俺が作った大根じゃ」と、だから言うところにはもう信心はないわけです。俺がしたと言う所、俺が作ったという所の。まず信心の一番基本になる所から教えておられる気がいたしますね。「菜を抜く時に大地を拝むような心になればおかげがある」とこう仰る。
そういう心に成らせて頂く事がです、それに信心させて頂く者でなからなければ、頂けない所謂おかげがそこに約束されておる訳ですね。「又それを煮て食べる時、神様頂きますと言う様な心あらば当る事なし」と。折角頂いたおかげ所が大根が当る様な事はないでしょうけれども、大根に限った事ではないですから、野菜に限った事ではないですから、中毒を起こしたりする様な事ありますよ。
食べ物なべてそれが身体を壊すと言った様な事にいわば、なるような事がありますけれども、神様頂きますという、それを煮て食べる時に神様頂きますとこう合掌して、それを頂くというような心あらばあたる事なし。どうぞ、おかげをおかげが受けられるそのおかげが、いよいよおかげが育って行くという気がいたします。ですから又、その頂き終わった後に神様頂きましたと、いわゆるご馳走様でしたという心あらば私はいよいよそれがですね、血にもなれば肉にもなるおかげになると思うのですよね。
そこのところはここにはありませんけれども、結局どういう事かと言うとね、もう、徹底してです、神様のいわゆるお働きというか、いわゆる神恩に報謝する心だという事なのだ。ですから、もう、大地に大根を抜く時に拝んでおるからそれでいいじゃないかと。理屈は成り立たんことはないですけれども、いわゆるそこにお道の信心ですわね、いわゆる実意丁寧神信心という。
問題はこのすべてが拝めれるという心。全てが拝めれると言う心。そういう、心を作っていくという事が信心なのです。昨日の朝の御理解のように、ですから、信心とはもう本当のこと。真実、真実と本当という事。真実と書かなければ意味がわかりません。本当のこと、真実のこと、真実のことを覚えていく、教えて頂くという事が嬉しい。それが楽しい。という心にならなければお道の信心はできません。
今まで信心以外のことは随分勉強もして来た。例えば大学生でもありましてもです、信心のお話しを一度頂くことによって、はあ、知らなかった。そういう素晴らしい本当のことがここにあったんだと。その、本当な事、その事が人間の幸福幸せに繋がるのであったと。学問だけで人間が幸せになるのじゃない。技術だけで人間が幸せになるのではない。お金が沢山たまれば人間が幸福になると言うことでは決してない。
人間の幸福ということは、私共が本当な事が分かり、その本当な事を分かる楽しみ、喜ばしさというものがです分かったその事が行に表されてくる時、有り難いというものが頂けれるというのが昨日のその御理解でしたね。本当のことが分かる。その喜びその楽しさ。いわゆる健康の楽しさです。しかもその本当の事がです、生活の上に表されて行く時に、今のところが体験なのである。いわゆるおかげなの。
そこにいわゆるそれを行じて行くことの、今度は有り難さという事になる。だからこれにまだ平凡な言葉を持って、説いておられますこの三十二節の場合でもです、女が菜園に出て大地を、大地を拝む。菜を抜く時に地を拝んで抜くようなそれが本当なのだと。それを私が作ったと思うから、裏の畑から大根一本抜いてこい、取ってこいと言った様な事になるのです。しかしそういう考え方は本当な事じゃない。
真実のことは矢張り天地のお恵みによって出来たもの。天地の神様のお働きを頂かなければ出来る事ではない、米一粒でもね只私がそれに奉仕したという事だけなの。人間が奉仕したというだけ。ですから神様頂きますという心あらばという事、大地を拝むという事が拝んで頂くという事が本当なんだ。その本当のもう一つもっともっと本当足らしめる為に、それを煮て食する時にという事にまでなって来る訳なんだ。
それで出来上がった食べ物をです、例えば、商売人なら商売人の上に置き換えるとどういうことになるでしょうかね。自分が商うておる商品の一つ一つが拝めれる心だと私は思うのです。例えばそれが呉服屋さんであるならば、一反の反物を、一つ、一反一反がです、拝めれる心。しかもそれを今度は商う時にそれをお客さんに買うて貰う時に、ここでは煮て食するときにというような理屈と同じです。
それを愈々商う時にどうぞ、この商品が買われていく先方でお役に立ちますように。喜ばれますように。それは自分の可愛い娘が嫁に行ったときにです、どうぞあちらでもまたかわいがってもらえますようにというような、心情を込めて商品が拝まれ、商品に願われそしてその、商品が先方に買い取られていく時に後ろからそれが祈られるような心。なら、絶対引っ掛かることはないだろう。
という事にもなるのですね。だからこれは商いのことだけではありません。全ての事に、これは信心の基本になるところなんだ。けれどもです拝むという事がね、大地を拝むという事がなぜ、大事な事かいや拝むことが本当なことだというところにです、やはりご理解が必要になってくる。今日は時間がございませんですから、そのところを聞いて頂いて、今日私が御心眼で頂きましたことを一言聞いて頂きたい。
ご神前に今日出らせて頂きましたら、糸偏に非ずという、「緋」という字なるんでしょうね。ひおどしというあの「緋」ですね。糸偏に非ず。糸にあらずと書いてある。例えば今、おかげがあるとかあたる事なしとかと、いう事を私共がそういう心になったらとこういう風に説いてございますよね。そういう心になったら神様が下さるのだとこう言うこと。ここんところを頂きますと、どういう事になるかというとね。
おかげはね、「おかげは決して神様から出るというものではない。氏子の心からでるのだ」と、これは四神様のお言葉のなかにありますよね。「氏子、おかげはね神から出るとは思うなよと。氏子の心から出るのじゃ」と。こういうね、私は信心の素晴らしさがあると思うね。私共は神様のおかげでと言う。だから、願いもすりゃ頼みもする。けれども神様は、決して神からやるのじゃない。氏子の心から出てくるのだと。
おかげというのはそこへです、私どもが全てが拝めれれる心というものを作る事が信心だという事になりますね。ですからそれをもっちっとお道流に、難しゅういうとあいよかけよと言う事になって来る。神様と人間とがあいよいかけよで立ち行く世界の顕現ということになる。神様あなたのおかげでこんな見事な野菜が出来ました。私共がそう言うておる、だからその大地を拝む心とか、煮て食べる時に食する時に頂きますというそういう事になって来るのだけれども、神様の方から見るとそんなこっちゃない。
お前達が種を蒔いて、肥料を施して草をとって、そしてここまで育てて来たからと言う風に神様の方は言われる。そうですよ、私が作ったのですよというところではなくて、神様のおかげなくしては出来ません。いいえ、お前達の奉仕によって出来たのだとここに親と子のあいよかけよのというまあ、麗しい係わり合いというかね、そういう状態にならせて頂くところから生まれてくるおかげ。
唄の文句に「金が鳴るのか撞木が鳴るか鐘と撞木の間が鳴る」釣鐘をならここにある、撞木がある。金がなっておるのか撞木がなっておるのか分からん。金と撞木のその間がなっているのだと。金光様の御信心はそこだとこう思う。その間の音色というものがこれは、信心させて頂くこのありがたいという心でなからなければ聞き取る事が出来ない音色だ。信心させて頂いて本気でありがたくならせて頂く稽古。
いうならば、本当のことを分かって本当のことを行じていくというところから、生まれてくるのがおかげ。しかもこれですんだとは思いません。もう限りなく、拝み抜いていくという事になってくる。大根なら大根の例を申しましたが、大根を抜く時だけも、大地を拝んでおるから、それでよかといったようなものではなくてです、限りなくこれが祈られていく。だからその祈られていく、その心そのものがです。
神様のおかげを頂かなければ、自分でありがたくなろうと思うて、もありがたくなれない。ありがたいというのは、神様に許される心。だからそういう、ありがたいなあという境地を開かせて頂く為には、私共がです、本当な事を分からせて頂く楽しみ。本当な事を分からせて頂く、喜ばしさというものがです、信心の稽古になってからという事。それをもって帰って行の上に表していく家業の上に表していく。
商売の上に表していく。そこからいわゆる間の音色というものが出てくる。そういう、私は本当なことが分かり本当の事を行じることをです神様がお喜びに下さり、その喜びが反映してくる。私共の心に。それがありがたいというのである。どこから湧いてくるか分からないありがたさ。これは体験、自分はこんなにありがたいはずの自分じゃなかったのに。不安であり心配であり、いうなら浅ましい自分の心だけしか分からなかった、そんな心の自分というものが見極められる時にそうなんです。
ですから自分の心にこのようにありがたいものが、しかも尽きぬほどにですねありがたいものが湧いて出てくるように、心の中がありがたいなあ、勿体ないことじゃなあという心、そういう心が合掌の姿になる。だからそういう心が合掌する姿になる。そういう心になればとかそういう心があらば、おかげがあるとか触ることなしとかという、結論がでてくるわけですね。
どうぞひとつ決して、おかげというのはお願いしたから頂けれるというのじゃない。氏子の心から、その心というのは、全てが拝めれる心というその心におかげは限りなく頂けれるのだ。神様は神から出るのじゃないと仰るけれどもです、実をいうたら神様からもう出放題、出放しに出ておるおかげというものは。その証拠には何にも分からんなりにお取次ぎを頂くお願いをするおかげになる事実があるですがね。
けれども、そこに人間氏子の本当の姿勢、幸福というものが願われる所にそれはその、基礎土台になるものは心だと。だからそこを強調されたわけですね。人間の幸福というものはお前の心次第なのだから、おかげとてもお前の心次第なのだから、その心を私共がいわゆる、磨いてもいけ、改まってもいけ、限りなく美しくならせて頂くことの精進をするわけです。私は思いますけれどね、頭が良いとか技術が優れておるとか、そういう一つの器量というものがですね、器量人と申しますよね。
才能ある人。そういう、人が例えばその人の器量だけで、いうならば才覚だけで、その人の力だけでもしここに財産なら財産が出来たするならね、その財産は決して幸せの為の財産にはならない。私共がここに本当のことが分かると言う事はどういう事かというと、本当なことが分からせてもろうて、それはだから、頭が良いこともいらなければ、力が強い必要もない。けれども本当な事が分かる。
本当なことが分かる、真実の事が分からせてもろうて、真実が行の上に表されて生まれてくるところのおかげ、いうならば、それを財産なら財産と言うてもいいでしょう。本当のことが分かって、その分かった心に現れてくるおかげを頂いたらこれで人間が幸せという事になる。ガマだしだしたんじゃつまらんということになる。本当な事が分かって本当の道を行じて、そこから願わんでも頼まんでも頂けれるおかげといったようなおかげが現れてくる。これは絶対のもの。
そのおかげが財産であり健康であり、人の輪であり人間幸せになっていく全てのそれが、基であるものが、頂けてくると言う事。そして初めて人間が幸せになって来る。昨日末永さんが私が長年ここでちょっと、色々神様から頂いた事やらメモしておるものがあります、是はもう鉛筆で走り書きしておるのもありゃ、筆で書いておるのもある。小さい紙切れにもう、頂いたのをそのまま書いておるのがそれが沢山出てきた。
それを先生そのアルバムに一枚一枚こう、張りたいとこういわれてです、それはもういいことだけれども、その出してから私見せて頂きよりましたら、はあ、この紙切れだけは非常に探しよったばってんどこにやったじゃろうか、それを末永さんがちゃんと見つけ出しとるとです。それで、あの、見せて頂いたのですけれども。あの北野の秋山さんがね、あの、子供さんが次々出来ます、お孫さんが出来る。もう北野は大変有名なお産婆さんがおられます。
沢山のとりあげた何かというお産婆さんその方はまた、名前を人につけてあげるという事がねまた趣味なんだ。だから生まれたら自分がちゃんと名前を考えておる訳なんです。姓名学ですよね所謂勉強しちゃる。所がその秋山さんの所だけは私は合楽の金光様で頂くけんでとこういうちから、もう大体「合楽の先生ちゃそげな、姓名学やら研究しちゃるのとですか」そげな事なかばってん神様から頂いて頂くとじゃから。
と言うて大体そのそこから名前を頂いていくあれだけ、「あんたげはねその時は椛目ですよ。椛目で頂いてくる名前がもう素晴らしい名前だ」とこういう。姓名学から言うて。「大体あの、合楽の椛目の先生という人はどげな人か」ち聞いたから、こうこういうてと言うて大坪総一郎というのを書いて見せたそうです。そしたらその沢山の本を調べてですね、明くる日行ったら「ちょいと私はこげな名前の人は初めて」ちいうたち。
「丁度書いといたけんこれば見て見なさい」ち。大坪総一郎という、その姓名学からいう、まあ画数でしょう、あの( ? )と書いてあるですね。それにこういう風に書いちゃるとですよ「才量全身に満ち」と書いちゃる「才量がね才は才覚の才です「才量全身に満ち富貴繁栄、子孫永遠に残す吉運勢」だと書いてあります。大坪総一郎というその姓名から判断すると、私はもう才量が全身に満ちておるからその人は。
同時に、富貴繁栄これはもう皆が願ってやまないところじゃないでしょうかね。「才量全身に満ち」というのはこれは頭もよかつもおれば悪かつもおるですから、そういう訳にはいかんですけれどもね、けれども、富貴繁栄というところは、誰でもが願っておる。しかもその富貴繁栄がです、子孫にも残る画数だとこういう。画数というか貴重の数なんだ。それでそれを、以前若先生が聞きましてですね。
だからもう、大坪総一郎というのはこれは、襲名にする。だから私が初代大坪総一郎なら、今の若先生が二代大坪総一郎という事になるわけね。だから、そういう風にですね、大坪総一郎という襲名をしたから、果たしておかげが本当に受けられるだろうか。これは私は、姓名のことは分かりません。分かりませんけれども、これは例えば石川五右衛門でもいいですよね。
名前がこれは大泥棒になる名前だと言うてもです、その人の私は心次第でです是と同じものが頂けれるのが、信心だと思うのです。大坪総一郎になったらその名前さえ付けたら、お互い富貴繁栄は言うに及ばず、才量全身に満ちると言う様な私が才量全身に満ちているとは思われない。どっちかというなら私は低脳の方です。頭の方はけれどもね私の信心で、いわゆる心次第によってです私はこういうものを生み成して頂く事のできれるおかげを頂いておるのだと私は思うのです。自分の心次第なのだと。
それたまたま姓名学の方から言うとそういうことになっておった。それならそういう名の人が全部そうか。私の後を継ぐものが全部大坪総一郎になってから、いよいよ富貴繁栄していくとか、子孫にそれがそのものが続くといったような事に限るということはない。その人の心次第でそれを定めて行くというか限りなく頂いていけれるおかげということにもなるわけなんですから。
いかに心を大事にしなければならないかということが分かりますよね。今日は、女が菜園に出てと素朴な教祖様の御教え、菜園に出て野菜をとるときに大地を拝むような心あらばと、大地を拝むような心。またそれを煮て食するときに神様頂きますという心あらば、心の事をここでは説いてあると思うのです。ですから全てのものが拝まなければおられない程しの心を頂く事が先決だという風に思いますね。
どうぞ